チェスキー・クルムロフ
ベルリンの壁が開き、旧東欧が開放されて以来、プラハなどには多くの観光客が殺到し、
それ以降、さまざまな町がユネスコの世界遺産として登録されてから注目を浴びるようになった
町のうちのひとつが、チェスキー・クルムロフです。
「チェスキー」というのは、「チェコの」という意味で、元々はオーストリア領だった時代、
「Kurmau(湾曲した湿地帯)」という名前に由来しています。
その名の通り、モルダウ川が「ひ」の字を延長したような形で大きく湾曲している場所に、
町の旧市街が集中しています。
町は14世紀からドイツ系のローゼンベルク家、エッゲンベルク家、シュヴァルツェンベルク家へと
支配者を移すが、第1次世界大戦で敗北したオーストリア・ハンガリー帝国から離れ、チェコスロバキア領に
含まれることとなり、チェスキー・クルムロフと呼ばれることになります。
その後、ナチス・ドイツに併合され、チェコ人は追放されてドイツ人が入植し、第2次大戦後は逆に
ドイツ人が追放されて町は空家状態になったところへロマ民族が住み始めますが、町は半ば荒廃するままに
放置されます。
町の歴史的建造物が補修され始めたのは1968年の「プラハの春」以降で、90年の「ビロード革命」以降は、
西側、特にオーストリア、ドイツからの観光客の増加、1992年のユネスコの世界遺産に指定されてからは、
町の補修は急速に進められ、現在では観光客向けのホテルやペンション、お土産物店、レストランが並び、
世界中からの観光客を受け入れています。
また、この町はオーストリアの画家、イゴン・シーレの母親の出身地で、彼の美術館があります。